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「いじめ」に関しての考察(すべてのケースに当てはまるわけではないけど)

先日、息子が帰宅したら、道徳の宿題として

「いじめ」について家庭で話し合って、親もコメント欄に記載する
というのがありまして。
私が普段、息子に「いじめ」についてどのように考えているか、息子に「いじめ」に対して
どのように捉えたらいいと伝えているのか、自分の中で整理するいいきっかけになりました。

普段は、こういう「頭の中を整理する」系の文章はアメブロに載せていて、
WordPressにはこの手の記事は書かないのですが(いろいろあってw)
これは残しておきたい、と思ったので、こちらにも加筆修正して掲載することにしました。
(アメブロとWordPressで、どうやって書き方を変えているかも見られるかも?)

 

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ランドセルを開けたら

息子が学校から帰宅して、ランドセルを開けたら
「いじめについて」のリーフレットを持って帰ってきました。

息子も3年生。そろそろ「いじめ」というものが身近になってくる年代…ですかね。
まだ、うちの息子は「いじめ」というものが具体的にどういうものか遭遇したことが無いようですが、聞くところによると、人間関係の細かいトラブルはあるようです。

学校に行くだけで子供たちが教えてくれる

私は読み聞かせボランティアをしていることもあり、学校に行くと子供達に「誰のお母さんか」認知されています。
学校公開と保護者会だけだと、子どもたちに「〇〇君のお母さん」とは認知されにくいのです。
そして、実はこれは、子どもたちの様子を知るのにとても大切なことだと思っているので、そういう意味でも、読み聞かせボランティアはおススメだったりするのです。

それもあってか、私が学校でボケーと立っているだけで

「今日、〇〇君(うちの息子の名前)がふざけてて先生に怒られてた」
「〇〇君(うちの息子の名前)は言われないとちゃんと出来ないんだよ」
「〇〇君(うちの息子の名前)がこういうことをしてた~」

などという報告を子供達が勝手にしてくれます。笑

あまりにもダメ出ししか報告してくれないので、普段から、子どもたちは
周囲からどれだけダメ出しされているのかな
いいところを見つける習慣はないのかな?
とは思ったりもしますがw
「言われたことを言われたとおりにちゃんとやる」という事が「いいこと」と定義されていて
出来て当たり前(褒められない)、出来なければ容赦なくダメ出しを食らう…という生活になっていて、「価値観」が定義されていくと…うちの子がダメ出しばかりされるのも仕方ないかな…と。
彼らの基準で「ちゃんと」出来なくても、自分が納得していて周囲を傷つけなければそれでいいと思っているので、子供たちの報告は(よほどのことが無ければ)基本的に聞くだけ聞いてスルーです。
ただし、ごくたまに「よほどのこと」が潜んでいることがあるので、そのために聞いているというスタンスです。普段の細かいどうでもいいことの中に「よほどのこと」は潜んでいるので。

「ちゃんとやらないと」の「ちゃんと」って何?

そもそも、ちゃんとやらないとダメってことが、思い込み、なんですよね。
「ちゃんと」の基準なんて人それぞれでしょ?
例えば、10時半に待ち合わせしたとして、10時20分に着くのが「ちゃんと」だと思っている人もいれば10時半に着く人が「ちゃんと」と思っている人もいるし。
自分の基準に合っていない人を見て「おかしい。普通こうよね」って言っている人を見たら、私の中のスルースイッチが入りますw

なぜ「ちゃんと」やらないといけないのでしょう?
それをする目的は何ですか?

それに対して、目的が分かっていて、どうしても「ちゃんと」しないと誰かが困る理由でもない限りスルーしていい、と息子に伝えてあります。爆

いじめとは、いじめる側の「〇〇〇〇〇」

これから、すごく、ものすごく大雑把に言いますよ。細かいこと書き出すとそれだけでややこしくなるから。
ちょっと雑な言い方かな、とも思うのですが、私は、いじめとは「いじめる側の八つ当たり」だと思ってるんですよ。

いじめる側にもいろいろな言い分はあると思います。

 

アイツが変なことをした
アイツがムカつくことをした
アイツがちゃんとやらないから
アイツが俺の(私の)手柄を取った
アイツだけみんなと違ってずるい

アイツが…
アイツが…

 

アイツが私の中の「正しさ」と合致しない。(※あくまでも「私の中の」であるところがミソw)
だから「私は間違ったことをしていない」→「私は正しい」→「アイツが悪い」→「私が正してやる」と、自分の行為を正当化してるだけ

それが忠告やアドバイス…という、捉え方によっては相手に行動の選択権が与えられるものならいいのですが(要はスルーしたければスルー出来る余地があるっていうこと)

たまたま裏事情があり捻くれ曲がって、「いじめ」という、相手に行動の選択権が与えられず「なすがまま」になっているだけ、なのかと思っております。私は。

行動の「そもそも」堀りをしてみると

そもそも、仮に「アイツが俺を怒らせた」としても、いじめという手段を使ってでしか問題解決手段が見つけられないことが問題だとは思わないかね?
そもそも、あなたの中の「正しさ」って世界共通の「正しさ」じゃないよ?(「普通そうでしょ?」って言う人の「普通」が信用できないのと同レベルw)
そもそも、自分と周囲の関係性が上手くいってたら「A君がこんなことをしてた、ダメだと思います」なんて、そんな細かいところは気にならないんですよ。「ああ、アイツ、また何か変なことやってるなー」って、鼻ホジしながらスルー出来ちゃう。
スルー出来るようなどうでもいいことが気になってしまうってことは,それだけ、(いじめる側に)何らかの背景があってキャパシティがいっぱいいっぱいだというコトが推測できちゃうんですよ。

そう。だから、いじめる側が

無理して
我慢して
寂しくて
存在を認めてほしくて

そんな思いで、いっぱいいっぱいになって張り裂けそうな気持ちのタンクを空けてきなさい。
話はそれからだ、と、私は思ってます。

子どもは親の「価値観」を受け継いでいる

先日、ある子どもと話をしていて、その子が「目上の人の言うことは絶対なんだ。逆らったらただじゃすまされないぞ」と言っていて、この子のご家庭の中はどんな雰囲気なんだろうか…と思ったことはあります。
そんなご家庭で育ち、そんな価値観が「絶対」だと思い込んでいる子供に対して

「困ったことがあったら、なんでも気軽に話していいんだよ」

って言ったところで、それは難しいことになっていますよね。

子どもの問題の場合は、(多くの場合)家族も絡んでくるだろうから一筋縄にはいかない。ってのはあるんですよね。子どもによって、価値観とか心の土台が全然違う。だからこの問題は難しい。

いじめる側だって「いじめはよくない」ってことは分かっているはず

人は、自分を満たすために行動する、と言われています。
そして、すごく大雑把に言うと、満たせなくなると「寂しさ」や「自分の存在を認めて欲しい」ってのが心の中で燻り始めて(ほかにもありますが、大まかに言ってこの2つ)

わざと嫌がるようなことをしてでも反応をもらうことによって寂しさを紛らわせたり
「どう見ても理不尽だよね」ってことでも、理屈をこねて自分を正当化して承認欲求を得たり

そんな形で表面化することもあります。
(そして、それが表面化するころには、どうしてこんなことになっているのか本人もよく分かっていないことも)

そういう風に見ると、「いじめはよくない」って啓蒙するだけでいいのかな?と思うのですよ。

難しい。難しいですけどね。

いじめはなくならない、その上でどのような行動を選択するか

「いじめはよくない」ってジャッジして断罪している限り、いじめは減らないだろうし、いじめる側が追いつめられるだけのような気がしてます。

というわけで、今、置かれている状況ににおいて、どうやったら自分の人生を自分でかじ取り出来るようになるか、どうやったら苦しかった「価値観」を手放してアップデート出来るのか…

そんなことを日々試行錯誤しているので、どのようにコメントしたらいいのか…と思い悩むのでした。

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