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「正しさ」は自分の中にだけ存在する

こんにちわ。

自分にとっての価値観をしっかりすることは大切なことだと思います。
しかし、その価値観で構成されている
「正しさ」は自分の中にだけ存在する
っていうのを意識している人は、いったいどれだけいるのでしょうか。

どうしても
自分はこう思っているんだから、相手も同じ風に思っているのが当然であるって思い込み、手放せませんよねぇ。

え?そんな思い込み持っていないって?あ、そう。じゃあ

「普通〇〇だよね~」

って誰かに同意を求めたりしていませんか?

その「普通」は、誰にとっての「普通」なのでしょう?

さて、その「普通」が導き出される「価値観」および「正しさ」は、本当に一緒なのでしょうか?
それぞれの「正しさ」は、持って生まれた気質とか家庭環境とかなんかでバラバラなんですよ。きっと同じ親から生まれた兄弟姉妹だったとしても違うはず。

ていうか、むしろ、誰か全くコピーのように同じ人がいたら、そっちがびっくりですw

 

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「これが正しいのよ」と教えることは「思いやり」なのか

自分の家族とか友達とか知り合いとか…で、相手がしていることは自分の価値観と違うだけなのに
それは間違っている!こっちが正しい!
と、自分の正しさを伝えることが「相手への思いやり」って「思い込んでいる」
そういう人、多々お見かけします…

きっと、

「正しいと思う事柄はみんな同じ」
だということが大前提にあるから、
「自分の正しさ」と違うと

「あの人は正しくないから正してあげなきゃ」

って思ってるのかな?って。私も、若い頃はそんなだった気がしますが(^^;)

それって、相手の領域に土足でずかずか踏み込んでいるのかな?って最近思うようになりました。
(アドラー心理学でいう「課題の分離」が出来ていないってことなのかな?)

 

相手と意見が合わなくても、落ち込む必要は全く無い

そういう風に捉えると、
誰かと話していても、相手の考えと違っても落ち込んだり動揺したり怒ったり悲しくなったりすることはかなり減っていき

「ああ、私の抱いている正しさとこの人の正しさが、ただ違うだけなんだ」

と、その感情だけが残るようになりました。

相手の良いところは(可能ならば)吸収すれば良くて、合わないと感じた部分は「合わない」と認識した上で自分のココロから手放せば良いだけ。

何でもかんでも相手に合わせる必要も無いし、卑下する必要も優越感に浸る必要も批判する必要も全く無いことに気付きました。

 

相手が子どもでも同じ

自分の息子と関わるときも、自分の正しさを振りかざして注意したりすることは減りました。

自分の「正しさ」を振りかざして注意したり忠告したり意見を押し付けたりすることもたまにあります。しかし、彼の中にもしっかり「正しさ」があって、それが脅かされそうになると、ちゃんと反抗してきます。まあそうよね、自分の「正しさ」は自分しか守れないもんね…。

相手が反抗しているときは、自分は相手の「正しさ」を脅かしてないか

って考えます。

100%流される必要は全くないけど、100%押し付けることはできない

ですよね。

この発想が出来るようになると、息子のやっている行動が私の「正しさ」から外れているどころか全く意味不明な場合でも
「私には意味不明な行動だけど、彼にとっては何か目的があってやってるんだろうな。」
って捉えたうえで、どういう風に声掛けするかを私が考えられるようになりました。

他人の言葉を借りて生きている?

今、私が心がけていることは、
自分の気持ちや直感を信じていけば良くて、そのために自分としての考えとか気持ちをぶれないようにしなきゃって思っています。

よく「テレビで言っているから」とか「○○が言っていたから」で、そこに何の躊躇もせず鵜呑みにする人がいるけど、それは他人の考えや言葉を借りて生きているってことじゃないかな?

テレビや新聞などの情報媒体、もしくは誰か(自分以外の他人)の言葉がきっかけで何かを始めたりすることはいいけど、コピーじゃなくて、自分で考えて出した答えならいいと思います。

余談

あ、この文章自体が、あくまで「私の中の正しさ」で構成されているので、この文章に関して「ご自身の正しさ」と比較して落ち込んだり憤慨したりするのは、あまりおススメしません(^^;)
(違いを楽しむのは大歓迎ですwww)

 

↓おススメ本です♪

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