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【読後感想】学校へ行けない僕と9人の先生 (アクションコミックス)【ママ目線】

夏休みの終わりから2学期の初めにかけて、ネットだけでなく新聞やニュースでも不登校など「学校に行けない子」の話題が出ますね。
そんな流れで、私のFacebookのタイムラインで偶然この本の存在を知ることになった私。
即、Amazonでポチってお買い上げ。
自分が学生時代に学校に行きたくなかった時、同じような心理状態だったなぁと当時を振り返るとともに

どうして、あの時はあの思考状態から抜けられなかったのか

と、今でも疑問に思うことがあったり。
当時の私の状態と少し重ねつつ、(小学生の母であるという)今の私の状態から当時を俯瞰して見ながら、なるべくネタバレにならないように感想を書く、ということをしてみます。(多少のネタバレはご勘弁を)

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あらすじ

小学1年生の「政知」くんが、分からないことを担任の先生に聞いたらビンタされたことで心が壊れて学校に行けなくなります。
そこから中学1年までの「学校に行けなかった」ことを、本人視点での詳しい描写で書かれています。
絵や漫画を描くのが大好き、ドラゴンボールが大好きだった政知少年が、中学生の時に尊敬する鳥山明先生に出会う機会があり、そこで自分の生きる目的が見いだせたというお話です。

筆者の体験に基づくフィクションとありますが…創作というよりは事実を多少ぼかして書いている「ノンフィクション寄りのフィクション」なのかな、と私は捉えました。

相性のいい先生に出会えるかどうかは「運次第」

私には、小学生の息子がいます。現時点では息子は学校に行くことを嫌がることはありません。しかし、学校内での細かいトラブルや問題はちょくちょくあるように感じています。

先生も忙しいですし、子どもたち全員に目が行き届いているとも思っていません。今の日本の学校システムでその点に関して期待したら、先生が気の毒ですw

そんな中でも、子どもが「ボクのこと分かってくれてるんだ」って思える先生に出会えるかどうか…が、少しでもあれば救われるんでしょうけど…正直、運に左右されるところが多いのではないか?というところが率直な感想。

「ボクのこと分かってくれる」っていう感覚そのものが、その子によって違いますしね。

ま、そういう意味だと、この漫画の主人公は「1年生の担任の先生からいきなりビンタされた」というのは、(相性の合う担任の先生と巡り合えなかったという意味で)運が悪かったとしか言いようがないのです。

怒られたり叱られたりしても「100%自分が悪い」と思わなくていい

担任の先生からビンタされたのは、実は、その先生はプライベートでうまくいっていなくて、イライラを生徒にぶつけることが多かった…というのが、後になって主人公が分かるのです。

この件から見ても分かる通り、「誰かからされたことを、100%受け止める必要はどこにもない」のです。

(いいか悪いかは別として)親子の関わりの中でも、そういうことはあるじゃないですか。分かりやすい例だと女性の生理前のPMS。あの時期だけ「自分ではない何者か」が出現してきたかのように怒りっぽくなったり。
もし、自分の母親がそうだったら「嵐の期間が過ぎるのを待つ」しかないでしょ?その時期に起きていたことを全部受け止めてしまったら身が持たないですよね(って子どもの頃は思えないかw)

自分のしたことがきっかけで、怒られたり叱られたりすることはあります。反省することも時には必要です。
でも、それがたとえ「その人のため」だったとしても…人格を否定するような方法だったりその人を傷つけるような方法だった場合は特に「相手側の背景にもきっと何かがある」という前提で聞き、すべてを真に受ける必要はないと私は考えます。

自分ではどうにもできないことに気持ちの焦点を当てると、自分で自分の気持ちをコントロールできなくなります。

そういう意味では、この主人公は「自分の期待したとおりに他人から認めてもらえないと落ち込む」という傾向があり、それが自分でコントロールできない部分だったため情緒が不安定になりやすいのかなと思いました。
そういえば、過去の私も同じだったからなかなか抜け出せなかったのかな、と、今となっては思うのです。

それまで気にならなかったものが気になってしまう

この作品を読んでて、思春期の頃の私を振り返って思うのは

一旦自分が「いじめられている」モードの思考に陥ると

それまで気にならなかったクラスメートの視線とか一挙手一投足がものすごく気になるし、
全部自分に向けられているのでは?という考えになってしまう

のですよね。

誰かからどう思われるか?ということは気にしてもしょうがないのに

そのモードに入ってしまうと、

クラスのみんなにどう思われるだろうか?
私が今していることは、みんなから嫌われないだろうか?

が思考の大半を占めていたなぁと思います。

で、きっと、みんながみんないじめているわけではなかったはずなのに周りが見えなくなるんですよね。

いじめられていた時は、本当に視野が狭くなりました。しかも、当事者になると、そのことに気が付かないのです。(何を言われても「自分が攻撃されている」モードに入っているので、そのままドツボにはまるという…)

「フツウ」って何だ?

発達の凹凸に関して理解は出てきたものの、今もあまり変わらないですが…

筆者や私たちやが子どもの頃は、今以上に

「みんなと同じことが出来る=良いこと」

という図式が出来上がっていたように思います。

この作品は、(巻末の鳥山明先生の寄稿を除いては)筆者の自己視点で書かれているので、親としての心境などは全く書かれていません。

その中でも、主人公が「フツウになりたい」「ちゃんとした中学生になりたい」という部分に尋常とは思えないこだわりを見せているあたり、親御さんは「みんなと同じことが出来るように」「ちゃんとするように」と言って日ごろから関わっていたのかな?という推測は出来ます。

まあ、多くの親御さんがそう言って子育てをしているでしょうけどね…

最近、私はいろいろな人の話を聞くようになって、みんなに当てはまる「フツウ」は存在しないことに気が付きました。生まれ育った土地や兄弟構成、親の価値観によって人の「フツウ」はずいぶんと違うものです。

だって、関西より西の人は「カールといえばうす味」なんでしょ?それ聞いて関東人の私は「カールのうす味って何?」って言いましたよ。関東ではカールのうす味は販売してませんからね!!(笑)

その人が考える「フツウ」なんて、実は半径3mくらいにしか通じないのかもよ?

鳥山明に出会った「から」人生が変わった訳ではない

たまたま主人公がドラゴンボールに憧れて、本当に運よくご本人に会えて、その時にかけられた言葉で「人生の目的が見いだせた」だけの話で、鳥山明が何かすごいことを言って人生を変えたわけじゃないんですよね。

要するに、人生のメンターに出会ったことによって「生きる意味」を気づかされたってことですよね。

著名な人に出会ってメッセージをもらえたから、彼は幸せになれたのではない

そこを誤解して読むと「私も憧れのの有名人に出会えたら幸せになれるかも」という、壮大な勘違いからくる暴走に入りますw

身近に(会えそうな範囲の人で)メンターになれそうな人はいますか?

読み終わって、今日から私に出来ること

この本を読んで、私も人生のメンターを探したいと思いましたし、息子にも

学校と自宅以外の居場所

を一緒に探し出す機会を作ろうと思いました。

キミのことを分かってくれる人は、両親や担任の先生以外にもいた方がいい

母が息子に出来る、唯一のことなのではないかと思います。

 

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