【読後感想】追いつめる親 「あなたのため」は呪いの言葉【教育虐待とは】

どこでこの本を知ったのでしょうか。ちゃんと覚えていないのですが、教育ジャーナリストのおおたよしまささんはFacebookでもずっとフォローしておりました。

読み始めてからというもの、ここぞとばかりに強烈に胸に刺さり、胸からこみあげてくる何かを抑えながら読み進める…という、私にはとても身につまされる本でした。

しかし、私がこの本の読後感想を書くかどうかは少し迷いました。
というのも、この本、紙の書籍は絶版なんですよね。
Kindleで読めるみたいなので、ご興味がある方は電子書籍で読むことをお勧めします。紙の書籍はプレミアついてちょっとお高いみたいなので。

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読んでて吐きそうになった

冒頭から、こんな見出しですが(笑)
前半は、教育熱心すぎる親が、「あなたのため」と子供に「教育を強いる」という名目の「虐待」ともいえる親子関係の事例がいくつか紹介されています。教育熱心な親が子供を追いつめてしまうという光景は、個人的にはさほど珍しくはないと思いますが、さすが書籍となると壮絶なケースばかりが紹介されています。
この本を読んで「ここまで壮絶ではなかったよなぁ、じゃあ、何で私は生きにくかったんだろう」と振り返りながら読んでいました。
重い内容ながらも読みやすい本でしたので、読み進めていったところ、第5章の途中で指が止まり、嗚咽が止まらなくなりました(読んでいたのが自宅で良かったw)

子どもを追いつめてまで勉強させる親は、学歴コンプレックスがある場合が多い。
英語の苦手な親ほど、子どもに英語を学ばせたがる
(p166より抜粋して引用)

というのがあって、ここまでは「うんうんそうそう」って読んでいましたが、その後を読んで猛烈な吐き気に襲われました。

また、一見高学歴であっても、実は東京大学に行けずに慶應義塾大学に行ったなどという場合では、成功体験と屈辱体験の融合が、我が子へのゆがんだ期待となる。
「子どもには成功してほしい」という顕在的な願いの一方で、「子供にも屈辱体験を味わわせなければならない」という潜在的な欲求が渦巻く。
だから、自分の成功体験に基づいて我が子を激しく鼓舞する一方で、わが子の努力や成長を認めてやることができず、「お前はまだまだダメだ」というメッセージを発し続ける。それは、過去の自分へのダメ出しである。
(p166より引用)

「これだ。まさしくこれだ。」

もう、なんだか分からない感情が私の頭の中を支配しておりました。
顕在的な欲求(表のメッセージ)と潜在的な欲求(裏のメッセージ)が一致していないことはよくあることです。分かりやすい例えですと、明らかに怒っているのに「怒ってないからねっ」って言っちゃうパターン。
「親は絶対的な存在である」幼少期の子どもに親がこれをしてしまうと、子どもは親の発したメッセージの表を受け取っていいのか裏を受け取っていいのか分からなくなるのです。
親自身だって完璧ではないので、そういうこともあるかと思います。親自身がさらにその親御さんから同じことをされて育ってきたので、何の抵抗もなく同じことをしてしまっているケースもあるでしょう。

私もこの世に生を受けて40年以上経ちますが、30年以上前から続いた「期待されていると思っているのに、何でひたすらダメ出しばかりされるんだろう」って思っていた謎が解けました。

なぜこんなに「教育至上主義」になっているのか

1960年代の高度経済成長期ににおいて、労働の中心が第1次産業から第3次産業へシフトしていきましたね。団塊ジュニア世代の私の父はまさに「団塊世代」。1960年代の高度経済成長期に青春時代を謳歌した世代です。

 

どんな田舎に生まれても、どんな貧しい家庭に生まれても、勉強さえがんばればいい学校に行ける。学歴さえあれば、どんな出自であっても知的労働につくことが出来る。安定した、いい生活ができる。学歴は社会階層を行き来するための「通行手形」になった。(P159より引用)

このころから、勉強は「高学歴を得て、安定したいい生活を得るためのパスポート」という固定概念が広まってしまったため、勉強の目的が「人材育成」になってしまったということだそうです。一億総中流時代、結婚した女性は専業主婦がほとんどで、そこで差別化し優位に立つ材料の一つとして「子供の学歴」が当時の母親の価値を示すバロメータになったのだとか。

時代は変化しているのに、価値観は当時のまま?

私が小学生のころ(1980年代)はまだ、パソコンもインターネットもなく、VHSビデオが家庭に普及し、やっとCDが出てきたくらいの時ですね。団塊ジュニア世代の私が親の成功体験をもとに「教育至上主義」の価値観で子育てされるのは分かるのですが、終身雇用は危なくて、20年後にはほとんどの単純労働がAIに取って代わられると言われているのに、なぜ旧態依然の勉強や受験、学歴がいまだにもてはやされるのでしょうか。

先行き不安だからこそ「学歴」が欲しい

グローバルな人材育成、プログラミング教育、アクティブラーニング…先行き不透明な世の中に、子どもの将来に対する不安を抱えた親が、子どもに出来る限りの教育機会を与えようとします。経済格差が子どもの教育機会の格差にもつながるとニュースなどで報道されれば、「教育費をケチると我が子の将来の選択肢が狭まるかも」「我が子が遅れを取らないように」と思う親御さんも少なくないでしょう。先がどうなるか分からないからこそ、いまだに「学歴が大事」という考えを手放せずにいるのです。

子どもの「幸せ」は誰が決めるんだろう?

子どもは、少なくとも義務教育までは自分で稼ぐことが出来ませんから、どうしても親の価値観に左右されながら生活しなければなりません。

しかし、子どもは親の所有物ではありませんし、親の果たせなかった夢を果たすために生きているわけでもありませんし、マウントされる筋合いもありません。

目の前の我が子について、この子はどういう性質を持っていて、何が得意で、何を満たしたくて生きているんだろうということに想いを馳せつつ…親は子どもの人生を肩代わりするのではなく、親がまず自分自身を幸せにすると決めて動けば、子どももおのずと「自身の幸せ」に向かっていくのではないかと本書を読んで感じたのでした。

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