出来ない私にも「〇」を付けよう

こんにちわ。
来月の手帳講座の開催も決まり、いろいろなところでご縁をいただけることに感謝が絶えないよっちゅんです。

6月16日10時~11時45分、場所は八王子駅から徒歩3分、コワーキングスペース8Beatになります。
詳細は、Facebookイベントをご覧ください。

昨日も手帳講座だったのですが、昨日は何度も

「出来ない」今のそんな自分にも「〇」をつける

ということを繰り返し言っていたりしました。
(注:参加者の顔ぶれや状態を見て、講座内容が全く違うのですw)

ところで…出来る、出来ないは誰が決めているのでしょう?

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その基準は誰が決めているの?

例えば、EXCELの「出来る」の基準を「CSVファイルを取り込んで、それを自動でグラフ化できるVBAが作れるレベル」としていたら…
グラフが作れても、LOOKUPなどのセル関数が多少使えても、その程度ですと「出来ない」に分類されてしまいます。

出産前に派遣で長いことOA事務を経験しましたが、まず、そんなスキルはめったに求められません(もはやそれはOA事務の領域ではないというツッコミはご勘弁をw)

それと同じで、子育ての「出来る」の基準を

・ママはいつもニコニコ笑ってて
・子どもは親の言うことを聞いて文句は言わない
・宿題は親が言う前に完璧に終わっていて
・ゲームはやらない、もしくは時間を決めて自分で時間管理が出来て
・料理は手作り、スーパーのお惣菜やレトルトは使わない
・自宅はいつもきちんと整理整頓されていて、いつお客様が来ても大丈夫

…。

冷静に考えてみてください…。

いる?それが出来ているママ?
いないでしょ?

自分で勝手に、「出来る」をずいぶんと大きなハードルにしてしまって、「出来ない私はダメ」設定しているママが多いように感じます。

ちなみに、FacebookなどのSNSは「日常のすべて」でなく「日常の一部分を切り取っている」のですから、要注意。
テレビなどの「受け身の情報」を受け取ることばかりに慣れていると、受け取った情報で、対象物(および人)の全て
だと勘違いしてしまう傾向があります。

私だってシンガポールに行ったときや、チョコレートケーキを焼いたりしたときはここぞとばかりにSNSに載せてアピールしますよ。

この心境は、(普段は30点なのに)偶然100点を取った小学生男子が

「どうだ!オレ、100点だったぜ!」

と、そこらじゅうにアピールしまくるのと何の違いもありませんw

それを見て、普段からその子を知っていれば「あいつ、たまに100点取ったからって調子に乗っているなw」ってのが分かりますよね。

でも、SNSは(リアルで日ごろから会っている人を除いては)その部分だけしか見ることが出来ないのです。だから「〇〇さんはいつも海外に行っていて、手作りおやつを作っていてすごいママだわ」と捉えるか、「忙しそうだけど、たまには旅行にも行くだろうし手作りのおやつも作るのね」って捉えるかは捉える側の自由なのですw
(ちなみに、私はどっちで捉えられてもいいと思っているのですけどねw)

そして、何も、完璧に出来なければ「出来ない」扱いをしてしまう必要はありません。これは、日本の教育が「100点取ったやつがエライ」という100点至上主義の弊害かな、と思います。出来ない自分に「×」をつけてしまうという。

「出来ない」自分を自分で作り出しているのです。

出来ない、が手放せない理由がある?

じゃあ、「出来ない」自分、さっさと手放せばいいじゃない?って思うでしょ?

思うだけで手放せない人が多いんですよね。私もずっと手放せませんでした。

なぜか。

これね、「出来ない私」設定にメリットがあるからなんですよ。

人は、何か目的があって、それを得るために行動すると言われています。

なので、本気で変わりたい、出来るようになりたいと思っているのに

でも、~なので出来ないんです
でも、~なので手放せないんです

という、「デモデモダッテ」な状態になっているときは、その「デモデモダッテ」にメリットを享受していないか、自分を見直すタイミングなのかもしれません。

例えば、

以前、息子は靴ひもを結べなかったのですが、自分で結べなくてもいいと思っていました。誰かにお願いして結んでもらえればいいと思っていたのです。

私の中では「ただ単に出来ないからやってもらいたい」のか?
それとも、「出来ないって言えば結んでもらえる(自分を構ってもらえる、自分に関心が行く)から出来ない自分を作り出している」のか?

どっちかなーと思って見ていました。これ、一見同じように見えるのですが、目的が全く違います。目的が違うので対処方法が変わります。

後者の場合、「構ってもらう」ことが目的なので、いくら教えても、理由を付けて「やらない」選択を取るでしょう。だって、出来るようになったら「自分のことを見てもらえる」選択肢が1つ減ってしまうんだもの。
ちなみに、息子は、最初は出来ないならやってもらえればいいと思っていたみたいだけど、「自分で出来るようになりたい」って自分でスイッチを入れたら、結べるようになりました。

「動くと決める」スイッチを入れるのは、自分しかできないのです。

他人に何かをしてもらうのと、他人に機嫌を取ってもらうことの違い

ここを混同してしまうから、どちらのケースの場合も、一律な対応になり

他人に頼るのは良くない

みたいな風潮になってしまうのですよね。
出来ないものを出来ないと言えなくなり、一人で抱え込んで手の抜き方を知らない頑張りすぎる人は頑張りすぎてしまい、心身を壊してしまうのですよね。

他人は頼っていいと思います。ただ、他人ではなく自分で自分の機嫌を取れるようになると自分も周りも平和、かな。こんなことを書くと「オマエモナー」って言われそうですが、私w

他人に自分の機嫌を取ってもらう現象としては、分かりやすいものとして

ちょっと嫌なことがあると、機嫌が悪くなり、その機嫌を直すためにママ友集めて愚痴を言うことで解消する。
そして「そんなことないわよー。アナタは悪くない。悪いのは相手よ」の大合唱を浴びて立ち直る、とかねw
もう、そこまで行っちゃうとね、「アナタは悪くない」の大合唱を浴びること(=自分に注目を集める)が目的になっていて、そういう出来事を自分で引き寄せているんだよねwww

他人の価値観に揺さぶられない自分を作る

まあ、デモデモダッテな状況って
・他人の目が気になるんです
・失敗したくないんです
・怒られるのが嫌なんです
・恥かくのが怖いんです

などの「不安」から回避するために、もっともらしい外付けの理由をいくらでもつけて自分を守っている状態なんですよね。

そもそも、その「不安」を作り出してる「価値観」は自分で設定していることを忘れないでくださいね。

あの人が、あの状況が私を不機嫌にしているのではありません。
私が私を不機嫌にしている、のですから。

そんな「不安」を回避したいから「デモデモダッテ」になるのです。
そんな不安を持っている自分にも「〇」が出せたら、デモデモダッテが減り「で、そんな状況だけど私はどうしたいんだっけ?」って自分で自分の舵を取れることになるでしょう。

このシリーズ良かったなあ。ドラマはアレ、でしたがw

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