私が息子に声掛けをするときに気にしていること
私は、こちらのブログ以外にアメブロも持っています。
最初は、WordPressのブログをここに作ったタイミングでアメブロは閉鎖を考えていたのですが、SNS講座をするときにやはりアメブロの要望が大きいのと、アメブロは「半分SNS」のようなものと捉えているので、日々の徒然を書いたりアメブロから集客したりもしていたので、結局「2足の草鞋」になりました。
本来、こちらのブログでは息子のことはほとんど書いていなかったのですが…
現在、高校生のお子様をお持ちのお母さまから、
「アナタのブログ(アメブロ)を読んで、子どもが自分で決めないと動かないと思い、中3の夏から声掛けの方法を変えた」というご感想を頂戴しました。
実際にすぐに結果に響くわけでもないしその間には紆余曲折あったそうなのですが、中3の2学期で「9教科の評価の合計が30を軽く下回っていた」お子様が偏差値65の高校に合格したというエピソードを聞いた時はブログを書いていた私が吹っ飛びました。爆
アメブロはバックアップが出来ないことから、ぶっちゃけ「いつ消えてもいい」ことしか書いてないのです。今回のエピソードは私のためにも(笑)記憶に残しておきたいと思ったのでこちらのブログに書きました。(というわけで今回はSEO対策は無視、です笑)
これは息子が2歳の頃。この頃から「命に関わるレベルは止めるが、多少の怪我は仕方がないのである程度好きにさせよう」と思って接していました。痛い目に遭いながらも彼は自分で学んでいきました。ホント、何度夜間救急と休日診療にお世話になったか…(遠い目)
(ていうか、3歳までは自分が痛い目に遭わないと学習してくれない人だったのですw)
スポンサーリンク
もくじ
私が息子に声掛けしているときに気にしていること
まあ、息子に限らず「自分以外の人」と話しているときに気にしていることですが、私はまずその人のキャラクターを見て
ということを頭の中で探りながら会話していることが多いです。
(あ、井戸端会議やお友達同士の気軽なランチではそこまで深く考えていませんがねwww)
本人のキャラクターを見る
人間っていろいろなタイプがいますよね。負けず嫌いだったりそもそも競争が嫌いだったり。
「好きにしていいよ」って声掛けしたら嬉々として自由に動き出す人もいれば、逆に不安になる人もいますよね。
ずっと誰かと一緒にいるのが楽しい人もいれば、1人でいても平気、逆に1人の時間がある程度ないと耐えられなくなる人もいます。
まず、「このくらいの年齢ならこれだけのことが出来て当たり前よね」という画一的な固定概念を外して、その子のキャラクターを見ながら声掛けを変えていきます。
ちなみに、うちの息子(小3)は「自由気ままに行動したいくせに、誰も気にかけてくれないと急に不安になりべったりくっついてくる」という非常にめんどくさいキャラクターです。爆
他人と比較しない
先述した「キャラクターの違い」と共に、育った環境だって1人1人違うのです。同じ親から生まれた兄弟だったとしても、長子と末子では生まれながらに環境が違うのです。他人のお子様なんて言わずもがな。親の遺伝子だって違えば環境だってまるで違うのです。
というわけで、同じ条件で生育されていない人同士を比較しても無意味なのです。
私も、他のお子さんはどうなんだろう?と思うことはありますが、それはそれとして「情報として受け取り、息子に伝えるときも情報として伝える」ことを心がけています。
相手のテリトリーを守る、自分のテリトリーを守る
いろんなところでいろんな話を聞いていると「言えば分かってくれる(=変わってくれる)」と、変わってくれることを前提に話をする人がいます。
そういう時、私は思うのです。
他人を変えることは出来ないのになぁ…って。
伝える側が出来るのはあくまで「情報提供」でしかない、ということ。
相手を「変えよう」とすることは、相手のテリトリーに侵食すること。
相手を「変えよう」と思えば思うほど、相手は自分を守るためにも反発する、ということ。
逆に、相手が同じことをしてくることがあります。
2歳の子供と言えど、(無意識に)それをしてくることがあります。
まあ、コントロール、およびマウンティングをしてくる人は故意にしてくるわけではなく「自分(の主張)を分かって欲しい」がそのような形になって出ているんだな、と思っています。(いわゆる「毒親」はその派生形だと私は解釈しています)
「あたかも私が悪いように言ってくるけどそれはそれ、私は私だよなぁ」って自分のテリトリーを守る方向性に切り替えると無駄に神経をすり減らすことは減りますよ。
「何でそうなの」は軽めに、「で、今のアナタはどうしたいの?」に切り替える
つい、つい、「何でそうなの?」って言ってしまう…
原因を追究したくなるんですよ。「原因を追求すれば解決の糸口が見えるんじゃないか」って思うんですよ。
もう、みんな「警察24時」の見過ぎだから!笑
警察みたいに「過去に起きた出来事の真相を知る」のが目的ならまだしも、
それって、カーナビの目的地を設定せずに現在地周辺をつぶさに調べているだけなのと一緒。
ついでに言うと、過去の事実そのものは変えられないのに、そこを追求したところで「変えられないものを変えろと言われている」感じがして相手はとても苦しいですよね。
原因を知ることは必要だったとしても、それはほどほどにして「で、今の状態を知ったところであなたはどうしたいの?」変えることが出来る今の行動に焦点を当ててみます。
「で、今、私はどうしたいんだろう?」
1度考えてみてもいいかもしれません。
手帳講座でもSNS講座でも「どうしたい、って考えたことが無かった」という反応は一定数あります。親自身が「どうしたい?」っていう視点でモノを見るということが、子どもに「で、どうしたい?」を伝える第一歩だと思っています。
親自身が「自分を生きる」と決めること
一番重要なのは「私が私の人生を生きること、だなぁ」ってしみじみ実感しています。
私のお腹の中に宿していた時期があったからといえ、私たちが教育費などのお金を払っているとはいえ
子どもは親の所有物じゃない
ということ。
親の夢や願いをかなえるために子どもは生まれてきたわけじゃないし、親の寂しさを埋めるために子どもが生まれてきたわけじゃない。
まず、親が出来ることは「子どもは子どもで1人の人間である」ということを前提に子どもと接して、そして「かつて子供だった私」にも「私も1人の人間である」と、親から受け継いだ価値観のうち不要なものは手放して自分を生きる、と決めればいいのかな、と思います。
スポンサーリンク